マルタに第一次世界大戦で亡くなった日本人の戦没者墓地があります。
「なぜ、マルタに…?」
と思う方も多いのではないでしょうか。
マルタ在住の私Miya(@TabitInfo)もその一人。
マルタに住んでいるので、日本とマルタとの繋がりがあるのなら一度訪れてみたいと思い、行く前に何があったのかを調べてみました。
私は歴史が得意ではないので、ちょっとの言い回しで難しいと感じて思考がストップしてしまう…
そんな私みたいな人のために、ざっくりと解説します。
マルタ 「榊」の戦没者墓地について
第一次世界大戦
第一次世界大戦があったのは、1914年7月28日 – 1918年11月11日。
ちょうど100年前に終戦したんですね。
世界戦争と呼ばれる大きな戦争でした。
終戦から21年後の1939年に第二次世界大戦が始まったので、そのひとつ前の戦争であった世界戦争は「第一次世界大戦」と呼ばれるようになりました。
日本にいる時によく第二次世界大戦の話が出ましたが、第一次世界大戦のことはあまり聞きいたことがありませんでした。
他の国、特にイギリスやイギリス系の国オーストラリア、ニュージーランド、カナダなどでは終戦日の11月11日に赤いポピーの花を胸に付け黙とうをします。
リメンバランスデー(Remembrance Day)と言います。
第一次世界大戦では日本とイギリスは「日英同盟」というものを約束していて、仲間でした。
(当時マルタはイギリスに支配されていました)
同盟国; ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリア他
連合国; イギリス、フランス、ロシア、日本、イタリア、アメリカ他
「榊」が地中海へ
1917年にイギリスからの要請で、地中海へ船を派遣することとなりました。
この時派遣されたのが、榊と他8隻の船からなる「第二特務艦隊」。
「日本ってヨーロッパでも戦っていたの!?」
と驚きますね。
第一次世界大戦、第二次世界大戦併せても、日本がヨーロッパで戦ったのは、この地中海派遣だけです。
要請を受けたのが1917年1月11日、マルタに到着したのが同年4月13日。
長い航海をしてようやく到着。
到着日の翌々日から終戦までの1年半、地中海で戦いました。
- 交戦回数 34回
- 護衛回数 348回
- 護送した船 788隻
- 護送人員 75万人
イギリス兵の救護を惜しみなくしたこの艦隊は、イギリスから勲章をもらうほどでした。
「榊」が被弾
同年6月11日に艦隊の1隻である「榊」に魚雷が当たり船の3分の1が吹き飛びました。
魚雷を放ったのはオーストリアの潜水艦。
59名が戦死しました。
その59名と任務中に病気や事故で無くなった方たちを合わせた73名が、マルタのカルカラにある墓地(Kalkara Naval Cemetery)に埋葬されています。
墓地に行ってきました
どんなところ?
場所
入り江を挟んでバレッタの南側にあります。
住宅街にあるので迷いそうになります。
入口左
敷地内地図
正面の道をまっすぐ進むと、突き当りのちょっと右側にあります。
とても立派
行き方
観光のメインとなるような華やかな場所ではないので、他に比べてあまりツアーがありません。
私はマルタに住んでいて時間があるので、バスで行きました。
バレッタからだと4,3,94番バスで行けます。
住宅街なので迷いました。
Googleマップで検索しながら見つけました。
タクシーで行くのが便利な場所です。
マルタでは配車アプリBoltが人気です。
歩くのが好きな人はボートも可能です。
帰りはフォートセントアンジェロ手前まで歩き(約30分)、そこからマルタ行きのボート(2ユーロ)に乗りました。
マルタの青いボートに2ユーロで乗れるなら、お得な交通手段だと思います。
入り江を出る時だけ手漕ぎ、その後はモーターです。
実際にその場に行って見て触れることで、学生時代苦手だった歴史もとても興味深いものとなりました。
歴史についてなぜ?背景は?と考えるようになりました。
そんなきっかけをくれるのも海外旅行のいいところだと思います。
そんな経験をしてみたいなと思った方は、立ち寄ってみてください。